<11>蝋で船を買う 〜時流読み海外交易〜


櫨の実から取れる蝋は、幕末期に佐賀藩の輸出商品に成長した。ミカンへの転作などで櫨の木は減少したが、現在も並木が残る綾部地区では吉戒貢さんが収穫を続けていた=中原町綾部

 県立博物館に「肥前国産物図考」という史料がある。江戸時代の捕鯨や陶磁器、石炭などの生産の様子を描いた図説で、県重要文化財。唐津藩士の木崎盛(もり)標(たか)が一七七三(安永二)年から約十年間かけて描いた労作だ。先ごろ県立博物館が初めて全八部を一堂に展示。来場者の関心を集めた。

 江戸時代は次第に商品経済が発達。各地の産物は利益を生む商品として注目され始め、どの藩も生産を奨励した。唐津藩の産物図考はそうした流れの中で描かれた作品。展示を担当した山崎和文学芸員は「殖産興業に対する藩主の深い関心を示している」と指摘。この時代を知る貴重な史料と位置づけている。

■村おこしブーム

 大分県の「一村一品運動」など、特産品による活性化を目指した村おこしの原形ともいえる、江戸時代の産業育成ブーム。佐賀藩ではどうだったのだろうか。

 「米以外では陶磁器だけ。その他いろいろありはするが、他藩に販売して利益をもたらすような産物はない」。『鍋島直正公伝』は鍋島直正が藩主に就任した一八三〇(天保元)年ごろの状況をそう描いている。直正の祖父、八代藩主治茂が六府方(ろっぷがた)を設けて産業を振興したものの、米と陶磁器に続くブランドを確立できなかったことが分かる。

 直正は就任後、産業育成を担う「山方(やまかた)」に優秀な人材を登用。経済手腕が見込まれた久米雄七や南部大七らは農村を回り、綿花栽培などを試行。天建寺(三根町)ではサトウキビ栽培による砂糖づくりに成功し「天建寺砂糖」は評判になった。だが、これらの試みは「水田で嗜好(しこう)品を栽培するのはけしからん」と守旧派の批判を招き、失敗に終わっている。

 しかしながら、長崎警備は強化を迫られ、新たな財源確保は緊急課題。一八四八(嘉永元)年、直正は「非常用の機密費を十年間で十万両貯蓄せよ」と指示。産業活性化が本格化する。藩は新田開発や櫨(はぜ)栽培と蝋(ろう)生産、茶の栽培、石炭採掘、和紙づくりなどを奨励。この中から米に次ぐ主力商品に成長したのが蝋だった。

■生産拡大に貢献

県立博物館所蔵の「肥前国産物図考」全8部を一堂に公開した展覧会。江戸時代のさまざまな産物生産の様子が描かれている=1月31日、佐賀市の県立美術館

 櫨栽培はこれより百年ほど前から九州各地に広がり、藩内でも東部地域を中心に行われていたようだが、盛んになったのは一八四三(天保十四)年、筑後から仕入れた苗木二万五千本を村々に配布した以後。生産された佐賀産の蝋は大阪市場で評価され、早速、藩は大阪の蔵屋敷を通じて売る専売制を敷いた。

 さらに、外国船購入の支払いに充てたのを機に輸出商品になる。一八五七(安政四)年にオランダの帆船(飛雲丸)を購入した際には銀千貫分(十数億円相当)の蝋で支払う契約。そのころから蝋は次々に積み出されていった。需要増を受けてこの年の櫨の本数は六十万本に。その四割が植樹間もない新しい木だったという。

 藩は御用問屋を九軒指定し、ヒット商品の生産や流通を統制した。問屋の中で有力だったのが江島村(鳥栖市江島町)の犬丸家。鳥栖市から神埼郡にかけての二十数村での蝋生産を統括し、大阪や長崎に製品を運んだ。また、山方や代官の指導で苗木の仕入れや配布も担当するなど、生産拡大に貢献したようだ。

■密貿易で利益?

 輸出商品は蝋だけではなかった。蒸気船の登場で需要が増えた石炭は、長崎の高島などで採掘したものをオランダ人へ。小麦や玄米を積み出した記録もあり、幕府の許可の範囲ながらも、開国前から海外貿易に積極的だったことが分かる。

 一八五八(安政五)年に列強と通商条約が結ばれると、輸出志向は一層強まる。蝋は外国人に好評の白蝋に。輸出が期待できる嬉野茶も、外国人好みの製法を指導するなど輸出産業化を進め、本格的な交易に乗り出したことがうかがえる。

 作家の司馬遼太郎は『肥前の妖怪』に次のように書いている。「閑叟(直正)は長崎に魅力を持ち、それを極秘に巧妙に利用し、その一代で想像以上の密貿易の巨利を博したとおもわれるが、事の性質上、いかなる書類ものこさず、形跡ものこさなかったために、いまは結果から見るほかは知るよしもない」

 薩摩藩は琉球を通じた密貿易で巨富を得た。「佐賀藩も長崎を拠点に密貿易をしていた」と推測する歴史家もいる。機密費だった特別会計の実態は分からず、密貿易の実否は不明。だが、佐賀藩が時代の流れを読み、他藩に先駆けて海外交易をしたのは間違いない。同様に長崎警備を担っていた筑前黒田藩と比べたとき、そのセンスが光って見える。


◆経済学者・正司考祺の提案

 江戸後期、すでに農産物から加工品まで多様な物品が流通していたが、佐賀藩は専らそれらを買い入れる側だった。こうした現状を見て、産業育成の必要性を説いたのが有田の経済学者正司考祺(しょうじ・こうき)だった。

 考祺の著書『倹法富強録』は他藩からの物品流入を分析。「生産力を高めて他藩領に売り出し、利益を上げるべきだ」と強調している。直正の政策ブレーンだった古賀穀堂は、これを草稿の段階で読み「重要な提言だ」と藩の殖産興業担当者に書き写させたという。

 現状認識をもとにした具体的な提言が特徴。農商分離などの政策も提案しており、穀堂の緊急提言書『済急封事』とともに、直正の藩政に大きな影響を与えた。

 正司家は1828(文政11)年の有田の大火事では、私財を復興に投じたことでも有名な豪商。考祺は商人としての活動の傍ら、経済を論じる著作を多く残している。(文・福井寿彦 写真・藤瀬福身)

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