<15>教育は聖域 〜人材育成 最大の遺産に〜


弘道館の流をくむ勧興小学校。資料室「懐古堂」の廊下に張り出された似顔絵の七賢人が、平成の子どもたちの活動を見守る=佐賀市の勧興小学校

 新規採用教職員を対象にした研修会の開講式。新学期から教壇に立つ教師ら二百八人に向かって県教委幹部が語りかけた。「幕末から明治にかけて、数多くの優秀な人材を輩出した。だが昨今は他県と比べて目覚ましいものがあるかといえば、残念ながら…」。

■財政難でも拡充

 「教育県佐賀」と表現された教育熱心な地域性は、十代藩主鍋島直正がつくり上げたといっても過言ではない。ひっ迫した財政状況、緊縮財政の中でも教育予算を増やし、藩校を拡充して学び≠人々の生活の中に定着させた。直正の改革が生んだ最大の遺産といってよいだろう。

 江戸時代、各地に寺子屋や藩校ができ、武士から庶民まで幅広い層の子弟が「読み書き算盤(そろばん)」などを習った。武士の子弟を教育する藩校は二百五十余り開設された。設立時期をみると、十八世紀末や十九世紀の前半、半ばが多く、諸藩で改革が行われた時期と重なる。「改革断行のためには有能な人材が必要」という発想がうかがえる。

 佐賀藩校弘道館は八代藩主治茂が儒学者古賀精里(せいり)に命じ、一七八一(天明元)年に佐賀城に近い松原小路に建てた。開設にあたって、モデルになったのは熊本藩校時習館だった。

 時習館は宝暦期(一七五一―六四年)に藩政改革を成功させ、「江戸時代の三名君」に挙げられる細川重賢(しげかた)が創設した。財政窮乏の中で藩主に就いた重賢はまず、改革の担い手となる人材養成に着手。時習館を建て、「厳しいときこそ人づくりが大事。決して教育予算を惜しむな」と厳命したという。

 熊本の改革成功に関心を持った治茂は、多久出身の儒学者で弘道館教頭格となる石井鶴山(かくざん)を派遣。改革と藩校の関係を学ばせている。石井がもたらした教訓は「改革は人材教育に始まる」だっただろう。そして、この教訓が初代校長格の古賀精里から、その子で直正の教育係を務めた古賀穀堂(こくどう)へ、そして直正に受け継がれたと思われる。

■自ら出席し奨励

 期待された弘道館だったが、プラン通りにはいかなかった。父に続いて教授になった穀堂は一八〇六(文化三)年、意見書『学政管見(がくせいかんけん)』で「学んでも出世につながらないとして出席しないばかりか、学問を非難する者もいる。生徒は減り、寺子屋同然の場になってしまった」と嘆いている。さらに、藩財政は最悪の状況に。建物の修繕もままならず、沈滞ムードに包まれていた。

 直正は一八三〇(天保元)年、藩主になると同時に弘道館の充実を指示する。『学政管見』で穀堂が訴えた政策はほぼそのまま実施に移されたといってよい。例えば「教育予算は削らず、逆に三倍に増やすべき」の提言に沿って、予算は百七十石から、佐賀城北堀端に移転した一八四〇(天保十一)年には千石に増加。敷地も千九百坪から五千四百坪に広がり、教室や講堂、武芸場、寄宿寮などを備えた。

 上級家臣から、足軽など下級武士の子弟まで全員の入学を求め、優秀な成績を収めた者は身分にかかわらず藩政に抜擢(ばってき)すると明示。逆に、二十五歳までに「免状」を得るなどの成果を収めなければ、家禄を減らすといった校則も制定した。

 また、直正自身も毎月一回視察。グループで書物を読み内容を研究し合う「会読」にも、定期的に加わった。自ら足を運び、意気込みを示すことで、学び≠ノ藩の命運がかかっていることを意識付けようとしたのだろう。

「教育県佐賀の再生が課題」。新採教職員研修の開講式で208人が耳を傾けた=佐賀市のアバンセ

■藩政機構に登用

 オランダの記録によると、直正は一八五四(安政元)年、長崎でオランダ軍艦に乗り込んで視察した際、「私の家来たちはとにかく学ばねばならぬのだ」と語っている。改革が進行しても、直正が学び≠重視し続けたことが分かる。

 弘道館で学んだ人材は藩政機構に次々に登用され、産業振興や科学技術の吸収に実績を残した。そして、大隈重信や佐野常民、副島種臣ら、新しい時代で活躍する人々を輩出する。

 現代も、教育は国政や県政の重要な柱だ。「他県と比べて目覚ましいものがあるかといえば、残念ながら…」といわざるを得ない現実に対し、県教委はアクションプランを策定。「教育県佐賀の再生」を掲げて、学力向上や心の教育推進を打ち出している。「困難な時代にこそ教育の充実を」という教訓を生かすことができるか。問われ続けている課題だ。


◆七賢人はぼくらの先輩

 藩校弘道館は明治新政府の学制改革によって、1872(明治5)年に廃止。約90年間の歴史を閉じたが、その教育理念や校舎は旧制佐賀中学校と勧興小学校に受け継がれた。

 特に、勧興小学校は校名も、藩校時代に教科書として使った中国・宋の『小学』にあった言葉「勧功興学」から取り、年少者が学んでいた蒙養舎(もうようしゃ)を継承して開校。当初は旧藩士や役人の子弟のための学校とされたこともあって、負けじ魂など侍気質が残り、スパルタ教育が特徴だったという。

 1914(大正3)年、北堀端から佐賀市成章町の現在地に移ったが、弘道館の精神はずっと語り継がれてきた。現在、校舎の2階には資料室「懐古堂」があり、歴史を物語る資料を多数展示。その廊下には鍋島直正や大隈重信らの似顔絵も。「佐賀の七賢人はぼくらの先輩」が児童の誇りだ。
(文 ・福井寿彦、写真・小山則幸)

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