<18>西洋医学の芽生え 〜科学技術立国へ布石〜


県立病院好生館の中庭にある種痘接種の像。左がわが子の接種を見守る直正。佐賀藩は科学技術立国への布石として蘭学を奨励した=佐賀市水ケ江の県立病院好生館

 「学問なくして名医になるは覚束なきことなり」―。県立病院好生館の設立理念に古賀穀堂(こくどう)の言葉がある。当時、医療といえば漢方が常識であった医学の世界に、新進の学問の蘭学を採用し、改革を断行した。「私的医療色の強かった時代に、学問として医学の向上を図った功績は大きい」と、齋藤貴生好生館長は先達の偉業に注目する。

■医学館で蘭学振興

 好生館の起源は、一八三四(天保五)年に設立された医学館にさかのぼる。日本初の医学校といわれる医学館は、当時としては珍しい教育機関を兼ねた医療施設で、現在の大学病院の先駆をなすものだったようだ。初期は漢方医学を専門に教えていたが、佐賀蘭学の先駆者島本良順が寮監となってからは蘭学を積極的に取り入れた。

 良順は蓮池町に代々続く漢方医の家に生まれるが、『解体新書』の出版から急速に普及しつつあった蘭学に刺激を受け、長崎で蘭方医学を修める。佐賀に帰り開業するが、保守的な風土の地元では新しい療法はなかなか受け入れられず、生計は苦しかった。

 それでも、大坂の蘭方医緒方洪庵(こうあん)と親交を結ぶなど学問を追究。徐々に門弟を増やした良順は、直正に見いだされ蘭学普及の強力なけん引車となる。佐賀出身で江戸蘭学三大家と言われた伊東玄朴(げんぼく)、後に佐賀の蘭学を率いた大庭雪斎(せっさい)、金武良哲(りょうてつ)ら優秀な蘭学者を育て、医師、教育者として才能を示した良順は、蓮池鍋島藩の侍医に抜てきされた。

 医学館設立を提唱した古賀穀堂は、上程した建言書『学政管見』の中で蘭学修業の必要性を説いていたが、一八五一(嘉永四)年には医学館に蘭学寮が付設された。鋳立方(いたてかた)七賢人の中心として反射炉、大砲製造を成功させた杉谷雍助(ようすけ)など佐賀藩の蘭学者を代表する教導が数々の才能を世に送り出していった。

■しがらみ切り捨て

 医学館の教授たちは資格、免許のなかった医学の世界に医業免状制度を設け、漢方医、蘭方医を問わず、自己研さんの必要性を突きつけた。医学習練の奨励のため医師手当を増す一方、技術が未熟な医師の手当は減らすなど、能力主義の評価制度は当時の医師たちに大きな動揺を与えたことだろう。伝統のしがらみを切り捨て、西洋医学を導入した改革は、現代の遺伝子医療のようなドラスティックな転換だったに違いない。

 また、日本初の種痘接種は、直正が自ら進んで西洋医学を実践したエピソードとして知られる。伊東玄朴の種痘接種の進言を受け入れた直正は、一八四九(嘉永二)年には長崎在住の藩医楢林宗建に命じて痘苗を輸入。宗建の長子永叙、直正の世継ぎである淳一郎に接種し成功させている。

 香港などで種痘法が効果を上げていたことを知っていたとはいえ、ノウハウを確立したジェンナーのごとくわが子に接種を施した胸の内はどうだったのだろう。接種には大石良英ら複数の藩医が立ち会ったことからも緊張した場面だったようだ。わが子を見守る直正には藩の未来を蘭学振興にかける覚悟が感じられる。

■幕府の弾圧の間に

 このころ全国を見ると天保末の大凶作、天然痘の流行で社会が不安定だった。幕府は為政者としての威信を示すため、新思想の原動力となった蘭学、西洋医学を弾圧。伝統と特権を守ろうとする漢方医勢力はシーボルト事件(一八二八年)などを巧みに利用し、十数年にわたって蘭学に圧力をかけ続けた。

 だが、この蘭学弾圧は見方によっては佐賀藩にとって有利な状況をつくり出したともいえる。「火術機械の研究には蘭学が必要であり、西洋学問を導入した実績は医学のみ。よって医学館を改善するとともに蘭学を振興する」(直正公伝)。直正には蘭学による科学技術立国≠ヨの思惑があった。

 一八六一(文久元)年には「蘭方医学を修めない者は開業免状を取り上げる」と、漢方医学を禁止する通達まで出し、蘭学の急速な導入を図っている。

 伊東玄朴ら蘭方医の努力で、幕府は一八五八(安政五)年に官医の西洋医術採用を許可し、ようやく蘭学を公式に認めるようになったが、直正は十年以上のアドバンスを得ることができた。

 医学館は一八五八年に好生館と改称され、玄朴とともにシーボルトに教えを受けた大庭雪斎、大石良英らが教べんをとった。好生館は現在でも自治体病院として高度医療を提供するだけでなく、教育も前面に打ち出し「教育による医学の向上」という設立の趣旨を受け継いでいる。

西洋医学を取り入れてきた医学館の伝統は、今も好生館の精神として息づいている


◆シーボルト事件と伊東玄朴

 伊東玄朴は、神埼郡仁比山村の農家執行重助の長男として生まれた。名は勘造。オランダ語の師匠であった猪俣伝次右衛門の息子源三郎とともに江戸で蘭学塾を開いていた時、巻き込まれたシーボルト事件が、玄朴を名乗るきっかけになった。

 事件に関係したのは1827(文政10)年。用事で佐賀へ帰る際、シーボルトの鳴滝塾の門下生でもあった勘造は、高橋景保から源三郎を通して国外持ち出し禁止の日本地図をシーボルトに渡すように依頼され、6月20日にそれを届けた。

 翌年、事件が明るみに出ると追及の手が迫った。勘造の能力を評価していた直正は、江戸往来の者に荷物を託すのは当時の習いでそれだけでは罪を問われないと読み、家臣伊東仁兵衛の二男玄朴として自首させた。直正の思惑通り玄朴は無罪放免となった。源三郎は獄死し、蘭学者に対する弾圧が始まるが、玄木は不屈の精神で蘭学の普及に努め、蘭学禁止令を解かせる立役者となった。
(文 ・原田隆博、写真・小山則幸)

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