<20>蘭学から英学へ 〜米英台頭いち早く対応〜


佐賀藩士が学んだ英学校「致遠館」の跡地。長崎駅に近いビルの一角、高層マンションやビジネスビルに囲まれて石碑が立っているだけだ=長崎市五島町

 「I can speak Dutch(私はオランダ語を話すことができる)」。一八五三(嘉永六)年、浦賀に現れたペリー率いるアメリカ艦隊に向かって、幕府の通訳が最初に呼び掛けた英語だ。

 幕府はその約四十年前から、オランダ語専門だった通訳たちに第二外国語≠ニして英語学習を課していた。しかし、オランダ人に学んだ英語力では、深意を探り合う外交交渉は困難と判断。アメリカ側もオランダ語通訳を連れていたため、開国に至る日米交渉はオランダ語を介して行われた。

 西欧諸国で唯一日本と交易し世界貿易の中心だったオランダはすでに弱体化。イギリスやアメリカが産業革命をばねに躍進していた。ペリー来航は覇権国家交代≠強烈に印象づけた。幕府は急きょ、長崎奉行所内に英語伝習所を開設。これが日本での系統的な英語教育の始まりだった。

■エース級の人材投入

 一八四〇年代から蘭学研究に乗り出した佐賀藩。ペリー来航時には反射炉を築き、西洋式大砲を鋳造。精煉方(せいれんかた)も蒸気機関や電信機を開発するなど、やっと蘭学が開花しようとしていた。しかし、開国によって英学が取って代わることになる。

 その契機が一八六〇(万延元)年、咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を渡った幕府の「万延の遣米使節」。勝海舟や福沢諭吉らが名を連ねた使節団には、佐賀藩からも八人が参加。その一人、小出千之助の見聞が佐賀藩における英学の端緒となる。

 「技術革新はイギリスやアメリカが中心。世界に通用する言語も英語のようだ。英学に取り組まなければ遅れを取ってしまう」。蘭学寮で学び、オランダ語に習熟、蘭学寮指南役を務めていた小出の報告は、同僚だった大隈重信の心を揺さぶった。

 二人は英学の必要性を藩主鍋島直正に建言。翌年、直正は秀島藤之助と中牟田倉之助、石丸安世に対し「英語を学べ」と命じた。

 海外の新しい知識を学ぶ時、言語学習が第一歩になる。しかし、二百年以上続いた鎖国下でも交流し蓄積があるオランダ語に対し、英語は未知の言語。秀島らは蘭学寮で学んだ秀才だったが、与えられた辞書には「英和」も「和英」もなく、「英蘭辞書」でまず英文をオランダ語に訳す。それを日本語に直すという作業を強いられた。

 後に、秀島は精煉方でアームストロング砲の開発に従事。中牟田は日本海軍の基礎を築き海軍中将に。石丸も明治政府の工部省で活躍し、元老院議員を務めた。藩は英学にエース級の人材を投入し、本人たちも期待に応えたのである。

■大隈念願の致遠館

 直正はこの後も、次々に英学研究に藩士を指名。そして一八六七(慶応三)年、大隈らの念願だった英学校「致遠館」が、長崎にあった佐賀藩諫早家の屋敷内にできる。藩行政幹部が「(幕藩体制に批判的な考えを持ち始めていた)大隈らの活動拠点になる」と危険視したため時間はかかったが、他藩に先駆けての創設だった。

 藩は十六歳から二十六歳までの学生三十人を派遣。教師にオランダのキリスト教会から派遣されていたアメリカ人宣教師フルベッキを迎えた。三年前から幕府の英語伝習所で教え、名声を得ていたフルベッキには、薩摩藩や土佐藩も触手を伸ばしていた。佐賀藩は高額年俸を提示するなどしてスカウトに成功した。知識吸収に向ける情熱の差が表れた結果だろう。

 フルベッキは一日おきに訪れ、新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストに一、二時間ずつの授業を行った。それ以外の授業は学校運営の中心となっていた大隈や副島種臣が担当。欧米の政治や法制度を講義し、学生と議論し合った。語学を習得して情報を吸収し、議論によって確かな知識にするという手法を確立していたように思える。

 活動期間はフルベッキが明治新政府に招かれ東京に移るまでのわずか二年間。原書を翻訳する人材養成という藩の狙いとは異なり、実際には欧米の政治や思想の研究に力が入り、斬新な教育手法は評判を呼んだ。致遠館に学んだ藩士の一人は「わが藩人だけでなく他藩の人々もやってきた」と述懐している。

■学び合い知識を吸収

 最先端の知識を求める実用の学問だった洋学。蘭医学に始まり、重点は科学技術に移り、開国に伴って英学に転換する。佐賀藩はその先頭を駆け抜けた。致遠館をリードした大隈は一八八二(明治十五)年、自由な学風を掲げて東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設する。

 朱子学に偏り窮屈な思いをした藩校弘道館への反発とともに、学び合って知識を吸収した致遠館での実践が原点となったのである。

幕府の英語伝習書は当初(奥)に設けられた。出島(手前)の真向かいにあり、通訳たちはオランダ人から英語を学んだ=長崎市出島町


◆語学力と博識備えた教師

 致遠館と幕府の英語伝習所で教師を務めたフルベッキは1859(安政6)年、29歳で来日している。アメリカの神学校で学び、オランダ語、英語のほかにもフランス語、ドイツ語に堪能で、来日後、日本語も完全にマスターした。蘭学から英学に移る時代に最適な教師だった。

 英語だけではない。政治や法律、経済も教授。大隈重信、副島種臣、江藤新平をはじめ、薩摩藩の大久保利通や長州藩の伊藤博文といった、やがて国を動かす人材に近代思想を伝えた。1869(明治2)年に上京し、新政府の政治顧問に就いたのも、中枢を担うようになった教え子たちが恩師の博識を頼りにしたためだ。

 多くの日本人を育てたフルベッキにとって、大隈と副島は印象が強かったようだ。日記には名前を挙げて「私は2人の極めて有望な生徒を持った。彼らは新約聖書の大部分を研究し、アメリカ憲法の大体を学んだ」と記している。
(文 ・福井寿彦、写真・小山則幸)

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