ビルの一室に設けたフリースクール。「子どもたちがほっとできるような場にしたい」と進藤さん。今は本を読んだり、ひとり思索する=唐津市坊主町

 唐津市坊主町の3階建てビルの1室。30平方メートル余りの部屋の中央に1台のテーブル、窓際には応接セット。本棚は教育の専門書や参考書から、小説、漫画まで、さまざまなジャンルの本が埋め尽くす。この部屋が新たな教室≠ニなった。
 
 「子どもたちとじっくり向き合いたい」。進藤輝幸さん(55)は昨年3月、25年間続けてきた公立中学校の教員を辞めた。学生時代から過ごした福岡市を離れ、帰郷。自宅でもあるビルに不登校児支援のためのフリースクールを開設した。
 
 

■社会変えたい

 最初に志したのは政治家だった。1960年前後。社会に残る旧体質。17歳の少年による社会党の浅沼稲次郎委員長殺害事件にも衝撃を受けた。「社会を変えたい」。漠然とした思いはやがて強い意志となり、九州大学法学部に進学した。
 
 入学した1968年の6月、「九大ファントム事件」が起きた。米軍板付基地を飛び立った軍用機が学内に墜落。基地撤去を求める学生運動は、授業ボイコットにつながった。しかし試験が近づくと収束の動きも出てきた。「問題は何も解決してないじゃないか」。納得できず、試験を受けなかった。留年、休学、復学、そして中退した。

 あらためて何がやりたいのかを問い直した。「世の中を変えるには人が変わるしかない」。サークル活動で障害児や被差別部落の子どもたちの学力支援にかかわった経験を生かし、教師になろうと決意。ちり紙交換や学校の警備員で資金を稼ぎ再入学。27歳で卒業し、79年に中学校の社会科教師に採用された。

 最初に赴任したのは小規模校。グループ学習会などで子どもとふれあった。2番目の赴任先は中学校が荒れた時代。生徒に暴力を振るわれたこともあった。

 1991年8月、別の中学で教師をしていた妻の啓子さんが亡くなった。41歳、胃がんだった。前年、啓子さんが勤務していた学校で発覚した「生き埋め体罰事件」。事件報道後の職員室ではマスコミに通報した"犯人探し"もあった。体罰に反対してきた啓子さんにも「嫌疑」の目が向けられた。ストレスが病気の進行に関係したのではと強い憤りを感じた。だが生徒の問題行動がエスカレートすれば、どの現場でも起こり得るとも思った。

 

■将棋の駒

本棚に並ぶ不登校やいじめに関する専門書。「不登校になる子は傷つきやすく、感受性が強い」と進藤さん

 教育に「ゆとり」が求められるようになった90年代後半。事務的な作業が増え、教師のゆとりが奪われていると感じた。生徒と休み時間に遊ぶことも減り、同僚と議論を交わすこともなくなった。「この忙しさは子どもたちに還元されるのか」「自分は将棋の駒にすぎないのか」。定年まではできないと、辞職を決意した。
 
 2000年8月、自宅をビルに建て替え、3階にスペースを作った。学習塾も考えたが、現職中に不登校児の支援が十分できなかったと感じていた。親子双方のプレッシャーになる状態を解消したいと思っていた。

 現在は専門書を読み、不登校の親の会などに参加する。フリースクールは3人集まった時点で始める予定だったが、思ったほどの反響はない。だが「子どもが自信を取り戻すために学校以外の選択肢が必要」と強く思う。「3人の子どもも20歳をすぎた。妻の13回忌も終わった。当分は退職金と家賃収入でやっていきますよ」

 スクール名は、自身と啓子さんの名前から1字ずつとった「啓輝館」。自ら啓(ひら)いて輝け、との気持ちを込めた。ビルの中で過ごす毎日。「生き方に納得できたらそれでいい」。かつて仲間とともに社会変革に立った団塊世代が、ひとり個人に帰り、再出発の時と向き合う。

◇団塊の世代◇

 戦後のベビーブーム、1947〜49年生まれの「団塊の世代」は全国に約700万人、県内は3万8000人といわれる。07年には定年が始まり、日本の経済成長を支えた人たちの多くが第一線を退く。雇用の確保や厳しい運用が予想される年金問題など、不安要素は多い。
 一方で、老いるには早いシニア世代は貴重な「社会資本」だ。県生涯学習審議会は団塊の世代の経験や能力を生涯学習などの分野で活用しようという考えをまとめた。
 具体的な取り組みになるまでにはまだ時間がかかるが、地域に活躍の場を設け、再出発を支援する流れが生まれつつある。これから数年、新たなステージで挑戦を始める人の動きが続きそうだ。