名前入りのオリジナルユニホームを着て練習する野口敦さん。「賞金を獲得して確定申告してみたい」と抱負を語る=佐賀市八戸溝の「ボウルアーガス」



 平日の昼間、マイボール持参の愛好家、運動不足解消に訪れた主婦らでにぎわう佐賀市のボウリング場。その一角のボウリング教室で、新人プロボウラー、野口敦さん(54)=同市=が中高年の受講者に指導していた。恰幅(かっぷく)のいい体、穏やかな笑顔はいかにも”優しいお父さん”。だが、レーンやピンを見詰める目はやはり鋭い。

 

 

■足掛け10年

 プロ試験に合格したのは昨年4月、52歳の時だった。足掛け10年、9回の挑戦を重ねて夢を実現させた。特に、最後の試験は心臓に”持病”を抱えたまま、1カ月以上にわたって過酷なゲームに臨まなければならなかった。
 
 2003年6月。過労とストレス、睡眠不足の日々が続いていた。外出中に突然、意識がもうろうとなって倒れ、救急車で搬送された。病名は急性心筋梗塞(こうそく)。緊急手術で一命を取り留めた。医師には「1年間は運動を控えて」と忠告された。

 だが、「じっとしていられない性格。ベッドで寝ているだけの日々に耐えられなかった」と野口さん。予定より早い3週間で退院し、ボウリング場に職場復帰した。半年後には、再びボールを握りレーンの前にいた。翌04年1月、毎年恒例になっていたプロ試験の受験申込書が自宅に送られてきた。

 挑戦したかったが、心配する家族の姿が目に浮かんだ。封筒は1週間、机の引き出しの中にしまったままだった。病院に通院し、投薬治療を続けていた。医師は「今回は見送った方がいいでしょう」。

 葛藤(かっとう)の末、家族に相談した。「会場近くには病院も救急車もあるでしょう。死んでもいいなら投げんね」。妻明子さん(54)が背中を押した。「これが最後」という覚悟で受験を決めた。

 受験者は10〜20歳代の若い世代ばかり。4日間連続で計60ゲームをこなすなど、試験は肉体的、精神的に追い詰められる。半年以上のブランク、心臓への負担も頭をもたげた。だが、長年の経験は裏切らなかった。スペアを確実に決めていく持ち前のプレーを保ち続けた。

 心臓のことも「のどがからからになるほど緊張していて、忘れていた」。2次試験の終盤、ストライクを決めて両手で小さくガッツポーズ。通過を決めた瞬間だった。ギャラリーには、涙を流す明子さんがいた。

 野口さんは1951年、製鉄工場が立ち並び、戦後発展を続けていた北九州市で生まれた。高校卒業後、佐賀市のボウリング場に入社。もともとは機械整備の担当だった。

 

■興味自然と

 
妻明子さんがプロ試験の間中書き続け、全スコアを納めた手帳。過去9回の試験のほとんどで付き添い、ギャラリーで見守り続けた

 ボウリングブーム真っ盛りの70年代。ホールに異動になり、にぎわう同世代の若者や家族連れを眺めているうちに、自然と興味がわいた。ストライクが決まる爽快(そうかい)感、レーンのオイルの塗り具合までも読む奥深さ。ボウリングの”とりこ”になった。
 
 プロを目指したのは42歳の時。「20年以上ボウリングと歩み続けてきた。その証しを残したかった」。だが、現実は甘くなかった。わずか数ピン足りずに涙をのんだこともあった。年齢を重ねるごとに、プロの壁も高くなる。それでも挑戦し続けた。突然襲った心臓手術も、夢を揺るがすことはなかった。

 「ボウリングは夫の人生に欠かせないから」と笑みを浮かべながら見守る明子さん。”遅咲き”のプロボウラーは、若者ばかりに囲まれた新人戦と同時に、50歳以上の大ベテランが集うシニア大会にも出場する。

 最盛期を過ぎて久しいものの、人気は根強いボウリング。「競技だけでなく、気軽なスポーツとして誰でも楽しめるのが一番の魅力。若い人たちのすそ野を広げていきたい」。次なる目標を詰め込んだマイボールに指を通し、ピンを目掛けた。

 

◇プロボウラーへの道◇

 日本プロボウリング協会によると、プロボウラーは全国で男女計1,024人、うち県内在住は3人(6月現在)。大会に出場したり、インストラクターで活躍するなどしている。資格を取得するには、同協会が毎年1回行うテストに合格しなければならない。
 第1次テストは4日間連続で1会場でプレーし、通過ラインは男子が計60ゲームで平均スコア195以上、女子は48ゲームで同185以上となる。第2次テストは関東、関西の4会場すべてでゲームを行い、第1次テストと同じスコアをクリアする必要がある。
 筆記、面接などの第3次テストを経て、晴れてプロボウラーとなる。今年は男女計174人が受験し、合格したのは33人。受験生は30〜40歳代が多く、全体の半数を占めている。