吉田家」の店長として多忙な日々を送る樋口有子さん。県外から訪ねて来る客も多い=唐津市浜玉町



 唐津市浜玉町の国道202号唐津バイパスを車で走ると、「吉田家」というオレンジ色の大きな看板がひときわ目を引く。タレント・はなわさんの大ヒット曲「佐賀県」に登場した架空の牛丼屋が実際に登場−。抜群の話題性で大勢の客が来店し、開店から約2カ月がたった今でも休日には行列ができる。フル回転で開店準備にあたってきた樋口有子さんは、「お盆を過ぎて、やっと一息つくことができました」。充実感いっぱいの表情で語った。
 
 2歳のとき、大阪・東大阪市から家族で福岡市に引っ越した。車でホットドッグの販売を始め、約1年後に唐津市へ。衣替えしたハンバーガー屋が人気を呼び、その後、ステーキハウスを立ち上げた。兄・亮史さん(47)とともに店を手伝い、小学5年生からウエートレスとして店に立った。「おいしい」と言ってもらえれば、もっと喜んでもらおうと努力した。そのころから、客と接する喜びを感じていた。

 

 

■歌と出合い

 歌との出合いが人生を変えた。小学3年生で初めて福岡ののど自慢大会に出場。「瀬戸の花嫁」を歌って優勝した。それからは、自ら「のど自慢荒らしだった」と振り返るほど多くの大会に出場。選曲もブルースなど年齢に似合わない大人びた曲を選んだ。1位になれなかったら、勝てるまで同じ大会に出続けた。歌手になることだけを夢見ていた。
 
 スターを目指し、テレビのオーディション番組に挑戦した。「スター誕生」、「君こそスターだ」。最終予選までは残るものの、優勝にはあと1歩届かなかった。1度はあきらめかけたが、テレビ局関係者の目に留まりオーディションに合格。中学を卒業すると母親とともに上京した。

 あこがれだった歌手としての生活。だが、スポットライトを浴びる華やかな世界は甘くはなかった。月の給料は約1万円。実家からの仕送りが頼りだった。最初はポップス志向で、演歌での売り出しに抵抗を感じたこともあり、事務所を1年で移籍した。

 次に所属したのは八代亜紀が新しく立ち上げた「センチュリーレコード」。派手なキャンペーンを展開した「10年賭けます」が5万枚を売り上げたが、その後は芸能界の力関係にほんろうされた。最後の「あぶな橋」まで5枚をリリースしたものの、レコードの売り上げは伸びずじまい。きっかけを求めてさらに事務所を移ったが、厳しい上下関係に悩んだ。

 「歌だけは誰にも負けない自信があった」。だが、子どものころから磨き上げた歌唱力だけでは芸能界では勝ち抜けなかった。事務所同士の確執もあり、人間関係に疲れ、最後の事務所ではレコードを出さないまま演歌歌手「樋口三代子」としての生活に終止符を打った。

 

■人生は挑戦

 
演歌歌手時代のレコードや写真、ブロマイド。「あぶな橋」は最後のレコードになった

 24歳で唐津に戻りステーキハウスのフロアに立ったが、芸能界復帰の誘いもあり歌手への未練を捨てきれなかった。迷いが吹っ切れたのは、店を訪れる客との出会いだった。「東京ではたくさんの人に囲まれていたけど、孤独だった。ここには私のサービスを本当に喜んでくれる人がいる」。歌手時代、ファン1人1人との触れ合いを大事にしてきた経験も生きた。調理場から指揮する亮史さんとともに、フロアの責任者として店を切り盛り。営業面でも力を発揮し、店の人気を確かなものにした。
 
 その経験は、吉田家の「佐賀を売り出す」というコンセプトに結実した。佐賀県産で統一した材料の調達、メディアを巻き込んだプロモーション。開店までの準備を任され、「実際にあったら面白い」店を現実のものにしてみせた。

 心血を注いだ新しい店は、まずは順調なスタートを切った。だが、現状にはまだ満足はしていない。将来は、自分がトップに立って組織を引っ張るという夢が広がる。「やりたいと思ったことはまずやってみる。それが達成できるまでは攻め続ける」。マイクを置き、新たなステージに立って18年。挑戦の人生はこれからも続く。

 

◇牛丼店の現在◇

 大手外食企業などでつくる日本フードサービス協会によると、2004年の全国での牛丼店を中心とした和風ファストフード店の店舗数は、前年比108・2%と増えている。それにもかかわらず、売上高は同81.7%、客数は 同78.1%と大幅に減少。米国での牛海綿状脳症(BSE)発生による牛肉輸入停止の影響を大きく受けた。
 今年7月のデータでは、店舗数も1503店と1年間で11店減るなど、不採算店の閉鎖も見られる。ただ、牛肉に代わるほかのメニューが浸透してきたこともあり、全体での売上高は回復傾向にある。
 唐津市にある吉田家の名前の由来になった吉野家の店舗は佐賀市に1店。全国展開するチェーン店を合計しても県内は数店しかなく、牛丼店にとって未開拓の市場といえそうだ。