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高島 こうした交流状況から察すると青銅器も韓半島とのつながりが深いようだ。
西谷 その通り。日本では後に祭祀(さいし)の道具へと変容したが、初期の青銅器は韓半島のものと形状は同じだし、武器としても使われている。青銅器の製作場所からはしばしば韓国系無文土器が出土しており、渡来系の人々が関与していたことを裏付ける。
高島 ところで韓半島と日本では青銅器と石器や鉄器が用いられる時期が微妙に食い違う。この違いをどうみればいい。
沈 青銅器が入ったころの日本は斧(おの)や刃物などの生活用具はまだ石器で、その後、鉄器が普及していくが、韓国は細形銅剣が存在する時代に石器は完全になくなり、鉄器文化に移行していた。
韓国から移った人が青銅器だけを作ることは考えられず、鉄も伝えたとみるのが自然だ。土生遺跡(小城市)の木製農具「踏み鋤(すき)」などは、鉄器がないとあそこまでの加工はできない。
高島 弥生中期前半の佐賀平野の遺跡からは鉄の刃先を用いた斧、吉野ケ里遺跡からは鉄製の小刀も出ている。日本では青銅器文化に続き、鉄器文化が伝わってきたという発展図式を考えるが、出土物や当時の韓半島の状況を勘案すれば、青銅器を作った人は、鉄器製作の技術も知っていたし、鉄を加工していた可能性は高い。
沈 ただ土生遺跡は石器も出ていることから鉄器の材料がまだ乏しかったのだろう。一般的に普及はしていなかった。
高島 吉野ケ里遺跡の多彩な出土品に、鉄斧をはめ込み、武器として使用した斧の柄がある。これは楽浪郡の漢墓から出たものと同形。ということは楽浪郡から持ち込まれた可能性もある。弥生時代の交易はどういう状態だったのだろう。
沈 弥生中期以降は特に往来が盛んだった様子がうかがわれる。勒島(ヌクト)や金海(キメ)など韓国南岸のほとんどの遺跡で、日本から運ばれた弥生土器が出ている。
中でもわれわれが掘った勒島は、弥生土器が2割も含まれていた。日本が韓半島の青銅器などを受け入れ、自ら製造したように、韓国にも弥生文化の影響がうかがわれる。
高島 魏志東夷伝韓伝には倭人が鉄を求め、貨幣のように使っていると記されている。対馬や壱岐の人々が交易の担い手として中継したようだが、魏志倭人伝に官設の市場とみられる「国々に市あり」という記述があり、吉野ケ里遺跡には、その市場と考えられる場所が存在した。韓半島や中国の人々が直接、吉野ケ里に来ていたとも考えられる。
西谷 吉野ケ里遺跡では鉄器に加え「貨泉」(中国の貨幣)も出ている。ほかにも原の辻遺跡で話題になった「竪櫛(たてぐし)」など、漢の出先だった楽浪郡や帯方郡につながる遺物が出ている。しかも、あれだけ大規模な市場があったということは有明海沿岸でも中核的な都市だったはず。当然、大陸から直接来てもおかしくない。
高島 吉野ケ里遺跡の歴史700年は弥生時代とすっぽり重なり、クニに発展していく過程をつぶさに押さえることができる。断定はできないが吉野ケ里遺跡が邪馬台国と考える研究者もいる。東アジア考古学の権威でもある西谷さんは所在地をどう考える。
西谷 魏志倭人伝に邪馬台国をはじめ日本のことがあれだけ詳しく出てくるのは、当時の国際情勢が背景にある。というのは魏王朝が、韓半島の南部や倭人のクニと手を結んでいることを示すことで呉・蜀をけん制した。
本題の邪馬台国論争だが、結論的にいえば奈良県大和盆地の南東部と私は考える。初期の前方後円墳の形成過程や、卑弥呼誕生前夜の「倭国の乱」の舞台・範囲などを併せ考えたい。加えて卑弥呼の鏡とされる「三角縁神獣鏡」が近畿地方を中心に分布するなど、さまざまな状況証拠から畿内説をとっている。
吉野ケ里遺跡については、弥奴国説を支持する。ただ吉野ケ里遺跡は当時のクニ、特に都の実態を解明する上で最高の条件を備えた遺跡。価値の高さは言うまでもない。
沈 吉野ケ里遺跡は、まず規模の大きさに驚かされる。祭殿など建物群、交流を示す市場、それに環壕や木柵など、当時のクニの首都の条件を満たしている。
倭人伝に出てくる末盧国や伊都国などを従えた中核集落だった可能性は高い。韓国で言えば検丹里や金官加耶(キンカンカヤ)などがそうだ。ただ、それだけで邪馬台国と呼べるかは分からない。周辺の遺跡との結び付きなど当時の実態を明らかにしていくことで吉野ケ里遺跡の役割が浮かび上がるはずだ。
高島 邪馬台国論争は果てなく続き、吉野ケ里遺跡の発見が邪馬台国に新たな舞台性を与え、具体的なイメージを描けるような論争ができるようになった。邪馬台国の時代は、日本国家の成立に重要なポイントになる。吉野ケ里遺跡の調査や研究が今後も影響を与えていくことは間違いない。
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