パート1 吉野ヶ里の実像と邪馬台国の人々



パート1 鼎談出席者

それぞれの発掘成果をもとに、環壕集落や青銅器に見られる日韓交流の足跡を語り合う沈奉謹さん、西谷正さん、高島 忠平さん=佐賀新聞社

Memo
■環壕
  環壕には、水をたたえた壕と空壕がある。吉野ケ里遺跡は、空壕で集落そのものを守る外壕と、北内郭、市場など集落内を区画する内壕で構成。外壕はV字に掘られ深さ約4メートル、幅6〜7メートル。総延長は約2.5キロとみられ、環壕集落の範囲は約40ヘクタールに及ぶ。

■土生(はぶ)遺跡
  小城市三日月町西部に位置する弥生時代の大規模農耕集落跡(紀元前1世紀から紀元2世紀ごろ)。住居跡や木製の農耕具、炭化米、木の実など農耕集落を裏付ける貴重な資料が多数出土。韓半島の影響を受けたとみられる韓国系無文土器も多く発見された。1973年に国の史跡に指定された。
10月9日にシンポジウム「〜邪馬台国への道〜九州説に理あり!」

前日には「吉野ケ里ウオーク」も

 新・吉野ケ里学を提唱する佐賀新聞社と国土交通省国営吉野ケ里歴史公園事務所は「邪馬台国への道〜九州説に理あり!」と題したシンポジウムを開きます。同遺跡をはじめ各地の発掘成果をもとに、古代国家形成史、そして古代史最大の謎である邪馬台国所在地論争に迫ります。前日には周辺遺跡を回るウオークを開催します。

 






「邪馬台国への道―新・吉野ケ里学」第3弾は「邪馬台国時代の日韓交流」をテーマに西谷正・九州大名誉教授、沈奉謹(シム・ボングン)韓国・東亜大学校博物館長、高島忠平・佐賀女子短大学長が鼎談(ていだん)。西谷氏は「倭国三十国」の1つとされる伊都国歴史博物館(福岡県前原市)の館長、沈氏は東アジア史物研究所の設立にかかわるなど、ともに九州・韓半島交流史の第一人者。弥生時代に各地で形成された環壕(かんごう)集落や青銅器のルーツが韓半島であり、海の道を介して親密な交流を広げていたことで一致した。

高島 日本最大の環壕集落として知られる吉野ケ里遺跡は紀元前3、4世紀から紀元3世紀までの約700年間、継続的に存在した。その初期の環壕が遺跡南側で確認されているが、形状はどうも韓半島にも類例がある楕(だ)円形のようだ。

 韓半島における環壕集落の成立は吉野ケ里遺跡より古く、その後、日本でいう弥生後期まで続いている。
韓国南岸には多くの環壕集落が確認されており、その中に環壕の形状が楕円形もある。南山(ナムサン)遺跡などがそうで、吉野ケ里遺跡のように大きくはないが、成立年代も同じとみている。形状や成立年代など類似点は多く、日本の環壕集落の起源は韓半島の可能性が高い。

西谷 関係の深さを感じさせる遺物も多い。福岡市の板付遺跡に代表される弥生時代初期の環壕集落から出土する磨製石器と同じ形式のものが検丹里(コムタンリ)環壕集落で確認されている。磨製石器のほかにも韓半島に源流を持つ支石墓が吉野ケ里遺跡の近くにある。環壕だけでなく付随する遺物や遺構までそっくりだ。やはりルーツは韓国と考えたほうが自然だろう。

高島 それでは日本で環壕集落という集落形態を普及させたのはだれなのか。弥生時代に始まった稲作は、韓半島や中国からの渡来人が日本に伝えたとの説が有力だが、環壕集落も渡来系がつくったのだろうか。それとも在地の縄文人なのか。

西谷 担い手はやはり渡来人だと思う。ただその人たちだけでなく、在地の人々も先進的技術や文化を受け入れ、育てていったと考える。

 私も縄文人と渡来系が融合し「弥生人」となりつくり上げたと考える。例えば縄文時代終わりの代表的な土器「夜臼式土器」に、韓半島から伝わった無文土器が影響を与え、弥生土器に変わっていった。このように在地の人々と移住した渡来人が協力し合い普及させていった。

高島 では環壕は何を目的につくられたのか。

西谷 壕や木柵などあれだけの大規模な土木工事を見れば、やはり防御という面が大きい。ただ初期と吉野ケ里遺跡が繁栄した後期とは防御の対象が違う。当初は周辺のムラだったが、大規模環壕集落となった後者はクニに対するものだった。

高島 初期の環壕は、緊張関係にあった在地の縄文人に対するもので、開拓者だった渡来系がコロニー(移住者の集落)として設けたと考えてもいいのか。

西谷 唐津市の菜畑遺跡など環壕を備えていない遺跡もあることを考えると、コロニーには疑問が残る。菜畑はむしろ渡来人と在地の縄文人が一緒に集落を形成していったというのが自然。当初から環壕を備えていた集落は、地域の象徴的存在とか拠点とみるのが自然だろう。

高島 弥生といえば青銅器文化が花開いた時期でもある。初期の青銅器は舶来品で、日本で製造を始めたのは弥生時代中期後半(紀元前1世紀終わり)とみられていた。ところが、佐賀平野の鋳型発見で青銅器生産が弥生時代前期(紀元前2、3世紀ごろ)までさかのぼった。吉野ケ里遺跡では弥生時代前期の銅を溶かす際の道具、鞴(ふいご)の羽口や取瓶(とりべ)のような容器が出土。青銅器製造では最も古いとみられている。

西谷 佐賀平野で日本の青銅器製作が始まったことは間違いない。当時、韓半島の先進的文化は対馬、壱岐を経て唐津に上陸。一方は福岡方面に、もう一つは(唐津・多久市境の)笹原峠を越えて佐賀平野に入ってきたのだろう。当然、製作技術もこのルートの可能性が高い。

高島 東シナ海から有明海を通じ入ってきたことは考えられないか。

沈 唐津からの陸路も否定しないが、私は紀元3世紀までは陸路より海や川の水路を利用した移動が主流だったと考える。有明海の潮の干満を利用した海運は近代まで活用されている。古代の対外交流に重要なルートだったと思う。

 


高島 こうした交流状況から察すると青銅器も韓半島とのつながりが深いようだ。

西谷 その通り。日本では後に祭祀(さいし)の道具へと変容したが、初期の青銅器は韓半島のものと形状は同じだし、武器としても使われている。青銅器の製作場所からはしばしば韓国系無文土器が出土しており、渡来系の人々が関与していたことを裏付ける。

高島 ところで韓半島と日本では青銅器と石器や鉄器が用いられる時期が微妙に食い違う。この違いをどうみればいい。

 青銅器が入ったころの日本は斧(おの)や刃物などの生活用具はまだ石器で、その後、鉄器が普及していくが、韓国は細形銅剣が存在する時代に石器は完全になくなり、鉄器文化に移行していた。
韓国から移った人が青銅器だけを作ることは考えられず、鉄も伝えたとみるのが自然だ。土生遺跡(小城市)の木製農具「踏み鋤(すき)」などは、鉄器がないとあそこまでの加工はできない。

高島 弥生中期前半の佐賀平野の遺跡からは鉄の刃先を用いた斧、吉野ケ里遺跡からは鉄製の小刀も出ている。日本では青銅器文化に続き、鉄器文化が伝わってきたという発展図式を考えるが、出土物や当時の韓半島の状況を勘案すれば、青銅器を作った人は、鉄器製作の技術も知っていたし、鉄を加工していた可能性は高い。

 ただ土生遺跡は石器も出ていることから鉄器の材料がまだ乏しかったのだろう。一般的に普及はしていなかった。

高島 吉野ケ里遺跡の多彩な出土品に、鉄斧をはめ込み、武器として使用した斧の柄がある。これは楽浪郡の漢墓から出たものと同形。ということは楽浪郡から持ち込まれた可能性もある。弥生時代の交易はどういう状態だったのだろう。

 弥生中期以降は特に往来が盛んだった様子がうかがわれる。勒島(ヌクト)や金海(キメ)など韓国南岸のほとんどの遺跡で、日本から運ばれた弥生土器が出ている。
中でもわれわれが掘った勒島は、弥生土器が2割も含まれていた。日本が韓半島の青銅器などを受け入れ、自ら製造したように、韓国にも弥生文化の影響がうかがわれる。

高島 魏志東夷伝韓伝には倭人が鉄を求め、貨幣のように使っていると記されている。対馬や壱岐の人々が交易の担い手として中継したようだが、魏志倭人伝に官設の市場とみられる「国々に市あり」という記述があり、吉野ケ里遺跡には、その市場と考えられる場所が存在した。韓半島や中国の人々が直接、吉野ケ里に来ていたとも考えられる。

西谷 吉野ケ里遺跡では鉄器に加え「貨泉」(中国の貨幣)も出ている。ほかにも原の辻遺跡で話題になった「竪櫛(たてぐし)」など、漢の出先だった楽浪郡や帯方郡につながる遺物が出ている。しかも、あれだけ大規模な市場があったということは有明海沿岸でも中核的な都市だったはず。当然、大陸から直接来てもおかしくない。

高島 吉野ケ里遺跡の歴史700年は弥生時代とすっぽり重なり、クニに発展していく過程をつぶさに押さえることができる。断定はできないが吉野ケ里遺跡が邪馬台国と考える研究者もいる。東アジア考古学の権威でもある西谷さんは所在地をどう考える。

西谷 魏志倭人伝に邪馬台国をはじめ日本のことがあれだけ詳しく出てくるのは、当時の国際情勢が背景にある。というのは魏王朝が、韓半島の南部や倭人のクニと手を結んでいることを示すことで呉・蜀をけん制した。
本題の邪馬台国論争だが、結論的にいえば奈良県大和盆地の南東部と私は考える。初期の前方後円墳の形成過程や、卑弥呼誕生前夜の「倭国の乱」の舞台・範囲などを併せ考えたい。加えて卑弥呼の鏡とされる「三角縁神獣鏡」が近畿地方を中心に分布するなど、さまざまな状況証拠から畿内説をとっている。
吉野ケ里遺跡については、弥奴国説を支持する。ただ吉野ケ里遺跡は当時のクニ、特に都の実態を解明する上で最高の条件を備えた遺跡。価値の高さは言うまでもない。

 吉野ケ里遺跡は、まず規模の大きさに驚かされる。祭殿など建物群、交流を示す市場、それに環壕や木柵など、当時のクニの首都の条件を満たしている。
倭人伝に出てくる末盧国や伊都国などを従えた中核集落だった可能性は高い。韓国で言えば検丹里や金官加耶(キンカンカヤ)などがそうだ。ただ、それだけで邪馬台国と呼べるかは分からない。周辺の遺跡との結び付きなど当時の実態を明らかにしていくことで吉野ケ里遺跡の役割が浮かび上がるはずだ。

高島 邪馬台国論争は果てなく続き、吉野ケ里遺跡の発見が邪馬台国に新たな舞台性を与え、具体的なイメージを描けるような論争ができるようになった。邪馬台国の時代は、日本国家の成立に重要なポイントになる。吉野ケ里遺跡の調査や研究が今後も影響を与えていくことは間違いない。




 
韓国との交流は、思い起こせば吉野ケ里遺跡が形成された時代からずっと行われてきたんですよね。特に九州は、海を越えて最初に到達する玄関口で、昔から最も近い地域だったわけですから、交流も一層深いのだと思います。
 私と韓国の縁はこの一年で深いものになりました。昨年七月、ビジット・ジャパン・キャンペーン(外国人旅行者の訪日促進キャンペーン)のため日本の「観光広報大使」に任命され、また、韓国の女優チェ・ジウさんと一緒に、日韓共同訪問年広報大使に任命されました。
 日韓友情年・日韓共同訪問年である今年は、日本と韓国でさまざまなイベントが行われています。私も、昨年九月、今年七月と韓国を二度訪問しました。日本の魅力のPRをする一方、チマチョゴリ(韓服)を着たり、NANTAの舞台を見たり、韓国の伝統文化・現代文化を楽しむ機会も得ました。
 今年三月から日韓関係にさざ波が立って心配しましたが、七月に韓国を訪問してみると、韓国の皆さんに温かく迎えていただいて、感激して帰って来ました。私が出演した映画やドラマのロケ地を例に挙げながら、日本の魅力を紹介するトークイベントをやったのですが、観客の皆さんとの心のキャッチボールも楽しく、しっかり受け止めてもらっている感じがしました。俳優のユ・ジテさんとも対談させていただきましたが、同い年でもあり、すっかり意気投合してしまいました。
 百聞は一見に如(し)かずといいますが、行ってみるのは大事だなと思います。草の根の交流を続けていくことが、ひいては国と国の信頼関係にもつながっていくのではないでしょうか。特に、これからの将来を担う子どもたちには、修学旅行などで異文化体験をしたり、同世代の子と友情をはぐくんだりすることによって、お互いを尊重し合い、世界に向けて、仲の良い兄弟のように手を取り合っていけるような関係になってほしいと思います。
 吉野ケ里遺跡だけでなく、日本の磁器の代名詞のような有田焼の伝統も、最初は韓国の方が伝えた技術だと思うと、日韓の人の交流、技術・文化の交流が昔からいかに進んだ地域であるかを実感させられます。今も、九州は温泉やゴルフなどで韓国の方に人気ですし、私もロケで九州にはよく来ていますが、標識などでもハングルをよく見かけます。
 今年は日韓友情年・共同訪問年というとても特別な年。残り少なくなってきましたが、素晴らしい年にしていきたいものです。本当の意味での近くて近い国に向けて。