パート1 吉野ヶ里の実像と邪馬台国の人々



パート1 鼎談出席者

それぞれの邪馬台国比定地を定時した後、根拠を説明するパネリスト=10月9日、県立芸術館ホール

Memo
中尾清一郎
(佐賀新聞社社長)
  吉野ケ里遺跡に立つと南向きのなだらかな斜面から広々とした平野が広がり、豊富な魚介類が生息する有明海が迫っています。古代からこんないい場所に、人々が住み着いたのは本当にうなずけます。シンポジウムを通じて歴史をひもときながら日本の原風景や日本文化の再発見に挑戦してみてください。併せて佐賀に住むことの素晴らしさを気付いてもらえれば幸いです。

太田広
(国営吉野ケ里歴史公園事務所長)
  開園から5年を迎えました。発掘調査は今も続き、弥生時代を解明する貴重な資料を次々と提供しています。遺跡の復元整備には賛否両論ありますが、形が見える歴史遺産として人々が集い、知的好奇心を満たすことは意義があります。これからも日本が世界に誇る貴重な歴史遺産の復元整備や体験型公園づくりに励むとともに、さまざまな形で情報発信を続けていきます。






国の特別史跡・吉野ケ里遺跡と「邪馬台国」の実像に迫る「邪馬台国への道(Road to the Kingdom)―新・吉野ケ里学」。1年目の総仕上げとなったシンポジウム(10月9日・県立美術館ホール)では、邪馬台国「九州説」を提唱する研究者7人が推定地を具体的に示し論陣を張った。季刊「邪馬台国」編集責任者の安本美典氏が福岡県甘木市を挙げれば、20年にわたり吉野ケ里遺跡発掘に携わる県文化課主幹の七田忠昭氏は、吉野ケ里を邪馬台国に初めて重ねた。続くパネルディスカッションでは佐賀女子短大学長の高島忠平氏、東京・共立女子学園校長の関和彦氏ら5氏が考古学、文献学などの見地から近畿説の弱点を指摘しながら、自らの九州説を展開した。 パネルディスカッションはこちら>>

 私は邪馬台国が筑後川の全流域にまたがっていたと考える。戸数は魏志倭人伝に7万戸と書かれているが、相当な戸数で、小さい地域には入りきれない。都は福岡県南部の甘木市辺りにあり、佐賀県のほとんど全地域が邪馬台国の範囲に入っていたと思う。
 
 最近、考古学界では邪馬台国畿内説が多いが、これは魏志倭人伝などの基本資料を全く無視している。例えば倭人は鉄のやじりを使ったとの記載があるが、福岡県で398個出ているのに対し、奈良県からは4個しか出てない。約100倍の違いがあるのに北九州を無視するのは全くの間違い。

 やじりに限らず、鉄の刀、剣、矛、刀子(ナイフ)も同じように分布している。絹製品を取り上げても全く同じ。魏志倭人伝には邪馬台国で絹製品を作っていたと書いてあるが、絹が出土した遺跡の分布状況を見ると、鉄製品と同じだ。

 鏡については三角縁神獣鏡を卑弥呼がもらった鏡だと主張し、それが奈良県からたくさん出てくるから邪馬台国畿内説を主張する人がいる。この議論は矛盾がある。

 第1に三角縁神獣鏡は中国から1枚も出ていない。もし卑弥呼の鏡なら魏があった北中国から1枚も出ないのはあまりにも不思議。第二に卑弥呼は239年ごろに魏に使いを出しているが、三角縁神獣鏡はほとんどが4世紀の古墳から出土する。後の時代に多く出るから前に時代にもあったと考えるのは間違いだ。

 卑弥呼の時代の中国の鏡は蝙蝠紐座内行花文鏡、位至三公鏡など。それらの鏡の出土の分布は鉄や絹と全く同じ。特に福岡から多く出ている。畿内説は事実を全くみていない。

 また魏志倭人伝に勾玉を倭国から中国に献上した記述があるが、これも九州から多く出ている。

 魏志倭人伝をちゃんと読めば、邪馬台国畿内説は成り立たない。邪馬台国は伊都国(糸島半島)のほぼ南にあると3回にわたって記述がある。伊都国の南で戸数7万戸とすると、筑後川流域以外にあり得ない。

 数字が正しいとはかぎらないという議論がある。これが間違いの元。数字で測れば誰がやっても同じ結果が出る。言葉だけの議論は、客観的でなく、決め手のない議論になる。どこかに物差しが必要だ。

 そもそも古事記、日本書紀などの文献を全く無視する議論が次から次に行われている。神話の部分は大和朝廷がつくり上げたという。しかし、神話に出現する地名の統計を取ると九州と出雲が圧倒的。大和朝廷がつくったのなら奈良県の地名がもっと出てきそうなものである。

 西洋でもホメロスの神話などは信用できないという風潮があったが、シュリーマンの発掘で瓦解した。現在では旧約聖書なども史実が伝えられているとされる。中国の史記の夏や殷の伝承も同じ。日本だけがいつまでも文献批判学の呪縛に従ってはいけない。


 20年ほど前までは邪馬台国は畿内にあると思っていた。ところが最近は九州ではないかと思っている。長年、吉野ケ里を発掘してきたが、ここ数年はもしかしたら邪馬台国を掘ってしまったのではないかもと考えるようになった。倭人伝に書いてあることがそのまま出てきたような感じだからだ。
 
 吉野ケ里は縄文晩期に集落が成立。弥生中期には集落域と甕棺(かめかん)墓地があり、後期は北内郭、南内郭、倉庫群など機能によって場所を分けており、全体的に中国の都市の様相を呈している。

 環濠(かんごう)は一度落ち込んだら動けない造り。何度も掘った跡があり、平常時は埋まるにまかせて、緊張が高まった時に掘り返したとみられる。土器はこの地方の土器のほか、島根、畿内など他地域の物も。かなりの広範囲から土器を持って多くの人が集まったようだ。

 南内郭の中心部は環濠が囲う。環濠が外側に張り出した所の内側に6本の柱跡があり、環濠との関連で初めて魏志倭人伝にある楼閣ではないのかと注目された。内郭は一番重要な空間で二重の環濠に守られている。出入り口は柵に囲まれ真っ直ぐは入れない。直径50センチの柱の痕跡があり、大きな建物があったのは間違いない。柱跡から平屋ではなく重層と考えられる。

 南内郭の横が高床倉庫群。100棟以上が見つかっている。大きい建物と小さい建物があり、区域によって使い分けたと思われる。市も存在したと考え、全体的に見ると地域の都であったことは間違いない。

 外交でしか手に入らない大きな鏡が吉野ケ里周辺からよく出る。ただ吉野ケ里からは小さな鏡しか出ていない。このため、少なくとも弥生中期後半以降は周辺の有力な村の首長が吉野ケ里に来て、王として君臨するという構図を考えている。

 ほかにも中国製品が多く出土する。強い中国の傘下に入ろうとしたことが出土品から分かる。日本書紀や肥前風土記には有明海を通った中国との関係がたくさん出てくる。また中国の百科辞典的な文書にも、佐賀の港の名が記載されている。

 邪馬台国は倭人伝などから戦争が絶えず行われた土地柄、大人数を支える経済基盤があった土地だと考える。吉野ケ里には倭の都らしいしっかりした建物があり、軍事的要害の地である。また前期以来広い範囲からたくさんの人が訪れ、中国とも外交関係がある。

 卑弥呼は邪馬台国でなく倭の女王。卑弥呼の宮殿と邪馬台国の長官がいた空間は案外近くにあると考える。現代では東京都の中に皇居と都庁がある関係。これが邪馬台国の中心の姿と考える。

 吉野ケ里は倭人伝に書かれた内容を持っている遺跡だ。卑弥呼の宮殿と邪馬台国の宮殿が共存する集落で、中国の都市の造り方を意識した遺跡。出土品の状況などから佐賀平野が有力と思われ、ほかの状況と合わせても現時点では吉野ケ里遺跡が最有力だろう。

 
 

パネリスト
高島 忠平さん(たましま・ちゅうへい)
1939年生まれ。熊本大法文学部卒。吉野ケ里遺跡をはじめ県内の遺跡発掘・整備の指揮を取る。『邪馬台国と吉野ケ里』(共著、学生社)『倭国大乱と吉野ケ里』(共著、山川出版社)など。
関 和彦さん(せき・かずひこ)
1946年生まれ。早稲田大大学院修士課程修了。文献史学を軸に日本古代史を読み解く。『邪馬台国論』(校倉書房)『古代農民忍羽を訪ねて』(中公新書)『卑弥呼』(三省堂)など。
清水 眞一さん(しみず・しんいち)
1947年生まれ。同志社大文学部卒。邪馬台国近畿説で最重要候補地とされる纏向遺跡の発掘調査を手がけた。『遺跡が語る古代史』(共著、東京堂出版)『発掘のロマン最前線』(共著、毎日新聞社)など。
片岡 宏二さん(かたおか・こうじ)
1956年生まれ。早稲田大第一文学部卒。文学博士。朝鮮系無文土器など日本の弥生文化に大きな影響を与えた朝鮮半島からの移入文化を研究する。『弥生時代 渡来人と土器・青銅器』(雄山閣)など。
佐古 和枝さん(さこ・かずえ)
1957年生まれ。同志社大大学院修士課程修了。考古学専攻。破壊の危機にひんした鳥取県妻木晩田遺跡の保存運動に取り組む。『吉野ケ里 繁栄した弥生都市』(草思社)『考古学はたのしい』(小学館)など。
コーディネーター
寺崎宗俊・佐賀新聞社報道局長

 

寺崎 吉野ケ里遺跡が全国に衝撃的なデビューを飾って16年7カ月。国の特別史跡に指定され、国営・県営歴史公園として「弥生王国」の復元作業が着々と進む。今回は日本のクニの始まりは北部九州、あるいは九州からと考えている研究者を全国からお迎えした。邪馬台国九州説の強力な応援団の方々にまず、それぞれが推定、比定する邪馬台国の位置を具体的に挙げてほしい。

高島 ずばり有明海沿岸の筑紫平野。久留米市から八女市にかけての、どちらかというと八女市に近い地域だろう。筑紫平野は日本で最も広い沖積平野。近畿説の中心地、大和盆地の約4倍という広大な平野こそが大勢力が成立し、成長していく下地となった。

 魏志倭人伝に邪馬台国の所在地は明示されていない。それを探すから分からなくなる。邪馬台国は「倭国」の1国。倭国の領域をはっきりさせれば、九州であることも自ら立証される。倭人伝を読み解くと邪馬台国の東方には海があると見える。これが大きなヒントになる。

清水 筑後川の中流域。日田盆地から筑後平野に出てきた今の福岡県朝倉郡辺りだと考える。そこには邪馬台国近畿説のおひざ元、奈良県・桜井市と同じ朝倉や三輪という地名が残る。当初、近畿が先で九州は後に付けられたと考えていたが、ある研究者から九州が先だということを聞いた。それが正しければ地形、名称からして福岡の朝倉郡が邪馬台国でもおかしくない。

片岡 吉野ケ里遺跡で発掘を指揮する七田さんに16年前、手紙を書いたことがある。あて先は郵便番号なしで「邪馬台国 七田様」だけ。それでも見事、調査事務所に届いた。当時はそれぐらいフィーバーしていたという逸話だが、私は集落の大きさから見て、筑紫平野の北。南部に邪馬台国連合の国々を求める。筑紫平野は二日市より南側で嘉瀬川より東、うきは市より西、大牟田市より北側をいう。

佐古 関さんと同じく倭人伝で記述する倭国のエリアを考えたい。となると北部九州。近畿と九州なら北部九州を迷わず選ぶが、九州のどの地域を選ぶかとなると、一長一短あり結論に至っていない。

寺崎 では推定の理由を提示してほしい。

高島 中国の史書「魏志倭人伝」は魏志東夷伝の一部で、その冒頭に「この地域には中国と同じ『礼』が存在する。中国が『礼』をなくしたときに復活する参考になる」と記述理由が書いてある。礼とは、当時の中国の国家秩序といえるもので、祖先崇拝、祖先信仰を中心にした社会的、政治的思想なり儀礼だ。
この祖先信仰を日本で最初に考古学的観点から確認できる地域は、弥生時代の前期終わりから中期初頭(紀元前2世紀後半から紀元前1世紀)にかけての北部九州。吉野ケ里遺跡の墳丘墓などで、北部九州にはほかにもあちこちで確認例がある。ところが近畿にはなく、普及したのは古墳時代になってからだ。
 もう1つは倭人伝に記される当時の社会構造だ。吉野ケ里遺跡には、北内郭や南内郭・倉と市・祭壇などの施設が一定の基準で機能的に配置されていたし、九州にはほかに奴国の比恵・那珂遺跡(福岡)、甘木市の平塚川添遺跡群、壱岐の原の辻遺跡などに例があるが、近畿にはない。久留米から八女にかけての理由はこの地域は後に磐井の本拠地となる。磐井が卑弥呼の子孫とは言わないが、邪馬台国の基盤が5、6世紀も発展したと考える。

 約1,300年前、奈良の都・平城京で日本書紀の編纂(へんさん)協議が行われた。中心に座っていた天武天皇の皇子・舎人親王の前にも魏志は置かれていた。ところが倭人伝に記された倭の女王・卑弥呼という女性に相当する人物は、天皇家や、天皇家に近い有力豪族の伝承にはなかった。
このため邪馬台国と卑弥呼についての統一見解を出す。日本書紀の神功皇后39年条に倭人伝を引っ張ってきた。「魏志にいわく。明帝景初3年6月、倭の女王」。こうして時代も違う神功皇后を卑弥呼に見立てた。これが邪馬台国近畿説の始まりだ。つまり天皇家の系譜に「卑弥呼」はおらず無理やりあてはめた。
先に述べたが倭人伝には「東渡海千余里」と明記され、邪馬台国の東には海がある。この記述に対し近畿説は答えていない。琵琶湖、伊勢湾などというが、そうであるなら回ればいいわけで、「水行」と書くはずだ。「渡」というのは異なる島を渡る。東に海があるのは九州だけ。このため九州東海岸の中部に位置したのではないだろうか。

清水 前方後円墳は円形周溝墓、方形周溝墓が重なってできたという説もあるが、私は壺(つぼ)の形を模したと考える。その壺こそ、中国の神仙思想「人は死後、壺の中を通って神仙の世界に行く」という考え方に基づく。
中国の画像石「沂南(せつなん)画像石墓」には東王夫と左右に2人の羽を持った人物が描かれ、いずれも壺の上に座し、この3つの壺が蓬莱(ほうらい)山を表しているとされる。つまり大和に入ってきた人たちは、桜井市周辺の三輪三山を、蓬莱山に見立てて王都を定め、壺形の墳墓の「前方後円墳」を造った。
ただ近畿地方では、大和朝廷以前に九州のような大規模集落がほとんど存在しておらず、ここに入ってきた人々は別の地域から移ってきた勢力と考えるのが自然だろう。
先に提起した九州の朝倉郡周辺は大和盆地東南部と地形も似ており、同じ地名も継承している。この勢力が何らかの理由で大和に移り、大和朝廷をつくっていったと考えたい。

片岡 私は考古学資料、特に集落を重視したい。壱岐の原の辻遺跡は南北500メートル、東西300メートル。これに対し、福岡県の糸島郡にある伊都国の中心部とされる集落は、南北800メートル、東西600メートルの規模、春日市の奴国中心部は、須玖丘陵が南北1,500メートル、東西800メートルになる。そうした集落の規模を考える中で、直径が700メートル前後の集落の八女市の室岡丘陵も無視できない。奴国などに比べると小さいが、室岡周辺にはほかに同規模の2つの集落がある。邪馬台国の中心は3つが1つの塊となって中心となっているかもしれない。

佐古 心情的には七田さんが吉野ケ里遺跡を初めて最有力候補に挙げられたことに拍手したい。近畿説は無理があると思うが、九州説も邪馬台国がどこかと明確に言えないところがつらいところ。吉野ケ里遺跡が邪馬台国という主張を堂々していくことで刺激を受け研究は進む。

寺崎 近畿説の学者の間では故小林行雄氏が主張する三角縁神獣鏡の同笵(どうはん)関係の呪縛(じゅばく)が解けていない。近畿説の弱点を指摘してほしい。

 卑弥呼が授かったとされる三角縁神獣鏡は近畿を中心に見つかり、近畿説の有力な論拠になっている。しかし三角縁の名称の由来となる縁が三角形かどうかなどに関して古代人は意に介していない。古事記、日本書紀、風土記をみても、鏡については光り具合や大きさ、色合いに関心を示すが、文様は一切気にしていない。もっと文献的に検証すべきだ。
さらに古事記、日本書紀で天皇家の先祖は鏡や宝物を部下に配るということはしていない。すべて略奪。その結果、奈良に集まったと考えるべきであろう。

高島 近畿説のよりどころである三角縁神獣鏡には、魏の年号があるが、呉の年号が入った鏡もあり、それを無視している。しかも神獣鏡は南方の呉の地域で製作された鏡である。中国で三角縁神獣鏡は一面も出土例がない。また日本製という考えが有力。それでも近畿論者は卑弥呼が製造させ配布したと考える。小林氏の立論も地方豪族に下賜することで、卑弥呼の支配権を示したということだが、古代文献には権力での下賜はなく献上だけがある。
さらに近畿論者は「邪馬台国ありき」で始まり、歴史がない。弥生から古墳時代にはつなぎきれていない。弥生時代の近畿には、大きな政治勢力をつくる素地はないので、吉備など他の勢力と「談合」し邪馬台国をつくったと、無理につじつまを合わせる。

寺崎 七田さんが吉野ケ里遺跡の邪馬台国説を出したが、邪馬台国所在地論に吉野ケ里遺跡はどう絡んでくると考えるか。

佐古 吉野ケ里遺跡の1番の魅力は倭人伝を彷彿(ほうふつ)させる内容を持っていることだ。吉野ケ里遺跡が邪馬台国かどうかは別として、倭人伝の世界の解明に大きな役割を今後も果たすだろう。ほかの遺跡では持ち得ない貴重な情報だ。

片岡 吉野ケ里遺跡は奴国や伊都国などクニと呼ばれる北部九州の遺跡の中ではさほど大きくない。ただ倭人伝に通じる遺物や遺構などが多数出土、邪馬台国を論じるときには避けて通れない。重要性に変わりはない。

清水 現在の時点では、吉野ケ里遺跡が邪馬台国の第1候補になり得るが、北部九州にはこうした遺跡がたくさん埋もれており、今後も突然に出現する可能性がある。

 吉野ケ里遺跡は優れた研究者によって発掘され、正しい情報を得た。そして多くのファンが関心を持ち、県民が遺跡を残そうと働き掛け、立派な公園として残った。今後、本当の邪馬台国が発見されても正確な形で残せるかというと可能性は少ない。邪馬台国研究において吉野ケ里遺跡が唯一、実態を解明する事例になるだろう。

高島 われわれが吉野ケ里遺跡としてとらえている部分は南北5キロ、東西600メートルの丘陵地。その南端に45ヘクタール以上の環濠(かんごう)集落が存在する。約300ヘクタールの広がりがあり、片岡さんが指摘した北部九州各地の邪馬台国時代のクニと同等の広さはある。
確定はできないが、クニの首都としての機能が効果的に配置され、倭人伝の卑弥呼の館と符合する遺構や邪馬台国時代の内部構造が分かる遺跡はほかになく、候補地に十分なり得ると考える。
寺崎 吉野ケ里遺跡の活用や公園の魅力アップに助言をお願いしたい。

佐古 吉野ケ里遺跡の復元には賛否両論あるが、遺跡の整備、活用を含め従来の概念を大きく打ち破った点は評価すべき。ただ、伝わるものがもう1歩欲しい。そのためには語り部が必要。復元建物だけでなく、人間のにおいや生活感が欲しい。また、九州説はもっと頑張ってほしい。近畿説の研究者も交えたシンポジウムで、正面から議論を挑んでほしい。吉野ケ里の存在と果たすべき役割は大きい。

片岡 遺跡だけでなく広い範囲の調査をぜひ進めてほしい。そうすることでクニ全体の実像が分かる。

清水 今、吉野ケ里遺跡は立派すぎて、私たち考古学研究者からは遠い存在になっている。桜井市では数年前、箸墓古墳の前で地元の人たちが卑弥呼の「没後1,750年祭」を催していた。地元の民間有志が遺跡を思い、大事にしてくれるのは素晴らしいと感じた。住民や愛好者が気軽に訪れる遺跡であってほしい。

 古代の遺跡公園は分かるが、古代のにおい、生活感が感じられない。例えば倉の柱の下なども無駄には使っていない。建物復元だけで終わっているような気がする。弥生の攻防を再現するなど遊び心をくすぐるイベントも企画したらいい。

高島 弥生時代のたたずまいを実感できる雰囲気づくりをこれからも心掛けていきたい。復元や公園としての整備にとどまらず、来園者に活用してもらう公園にしたい。その上で遺跡価値を高めるために、遺跡周辺の自然を含め世界遺産に登録する運動を提起したい。