第76回選抜高校野球に4年ぶり6回目の出場が決まった佐賀商。県勢のセンバツ出場は01年の神埼、鳥栖以来3年ぶりとなる。ここ数年、大舞台から遠ざかっていた名門の復活。甲子園切符をつかむまでの道のりをたどった。

復活佐商
センバツに挑む=(上)

復活佐商
センバツに挑む=(中)
復活佐商
センバツに挑む=(下)
復活佐商(上)   トロイカ体制 "
▲「当たり前のことを当たり前に」。田代監督(左)は野球に取り組む姿勢からこだわった
  「何点リードしていても怖かった」。昨年春の県大会で、佐賀商を破ったチームの選手が試合後に漏らしたことがある。10年前の夏、全国制覇を成し遂げた実績と伝統。攻撃的野球の「佐商カラー」は相手校に脅威を与えていたが、近年それを生かせず苦しんでいた。
  田代孝監督が3年間務めた部長時代、2000年にはセンバツを経験したものの、それ以降、県大会でも初戦敗退を喫するなど低迷続き。終盤までリードしていても、いつの間にかひっくり返された。02年4月。監督の仕事は、まず悪循環の原因を探ることから始まった。
  伝統校だけに周囲からは早期再建の期待がかかる。だが、「一つ一つクリアしていくしかない。結果はそれから」。先輩監督のアドバイスも受けて出した結論は、いい意味での開き直りだった。「当たり前のことを当たり前にやろう」。一塁までの全力疾走、声出し…。選手たちが野球に取り組む姿勢からこだわった。
  同じOBの森田剛史コーチも指導に加わり大学、社会人野球で培ったノウハウを積極的に注入した。伝統の打力を生かしたスタイルを踏襲しながらも、少ない好機をいかにものにするか。「1死三塁、内野ゴロでも1点」。打撃、走塁練習を繰り返した。「1点への執着心」を植え付ける狙いだ。
  昨年4月からは、伊万里商で監督を務めた松尾真也部長が投手陣の育成を担った。監督、部長、コーチ。3人が役割分担し、効率的に指導できるようになった。昨年4月の時点で部員は46人。近年、中学の有力選手は他の強豪校に分散していた。1学年に30人を超える部員がいたころと比べ多いとは言えないが、レギュラー以外の下級生にも目が行き届き、1、2年後を見越したチーム作りも考えられるようになった。
  練習メニューは監督、コーチ、部長の3人で1カ月前から練り上げ、日ごとに細かく決めた。個人面談も頻繁に行い、ふだんからコミュニケーションを密にし、選手が本音を言える雰囲気づくりにも努めた。「ワンプレーを大事にしようという意識が選手の間に生まれた」(田代監督)。3人によるトロイカ指導体制が軌道に乗り、復活への助走が始まった。

 復活佐商(中)  エース育成
▲ストレッチをする投手陣。エース松本(右)の成長がチームを引っ張る=佐賀商グラウンド
  02年秋。田代孝監督(36)はチームがまとまってきたのを感じる一方、「柱」となる投手の不在という壁に当たっていた。新チームになってから、練習試合で多くの選手をテスト登板させたが、納得できる結果は出なかった。「調子のいい投手から順番に使うしかない」。次の夏の県大会は継投で臨む覚悟を決めた。
  ただ、ひそかに思いめぐらせていたことがあった。中堅手・松本昭彦の投手としての可能性だ。入学当初からその強肩と馬力は際だっていた。翌年の6月から投球練習を始めさせ、「勝ち進んだら、先発でいく」。
夏の甲子園予選は最大5人の投手をつぎ込み、何とか勝ち進んだが、「打線のいいチームだったら、やはりごまかしはきかない」。田代監督は安定感のない試合運びに冷や汗の連続だった。
  準決勝からは予定通り、松本が先発のマウンドに上がった。決勝では2―6。スタミナ切れし中盤打ち込まれたものの、四回までパーフェクトに抑えるなどベンチの期待に十分に応える内容だった。
  夏の県大会終了後、迷うことなく新チームのエースに松本を指名した。「ひとつの試合を安心して任せられる投手が、何よりも必要だった」。田代監督は松本を軸にした投手陣の育成を松尾真也部長(36)に託した。
選手たちは炎天下のグラウンドを黙々と走り込み、下半身を強化。松本は松尾部長とマンツーマンで新たな変化球にも取り組んだ。力で押していた以前と比べ、投球の幅は確実に広がった。「走者が出ると、とにかく怖かった」。自らの課題も口に出し見つめるようになった。
秋の県大会は6試合中4試合に登板。九州大会出場権をかけた準々決勝の佐学園戦では、無四球完投で乗り切った。制球力、スタミナ、投球術。試合を重ねるごとに目覚ましい進歩を遂げた。
  松本の姿は本山亨佳(2年)、碇貴和(同)ら投手陣5人にとって発奮材料となった。04年の練習始め、恒例の決意表明。「松本に負けたくない」「自分もマウンドに立つ」。理想はあくまで投手陣全体のレベルアップ。田代監督は、ブルペンの様子を頼もしく見つめる。
  決勝まで進みながら投手力の差に泣いた夏の反省を生かし、取り組んだエース育成は一応の実を結んだ。少ない好機を生かし得点。あとは投手が踏ん張り、逃げ切る―。田代監督が描く理想のチームづくりは、センバツへ向け着々と進んでいる。

 復活佐商(下)  チャレンジ
▲4年ぶりの甲子園出場を喜ぶ佐賀商ナイン。粘りの野球で全国の強豪と渡り合う
  昨年10月の九州大会準々決勝、九産大九州(福岡)戦。三回、岩永匡弘(2年)が内野安打で出塁。犠打、盗塁で三塁へ、敵失の間に先制点をあげた。五回はヒットエンドランとスクイズ。六回はスクイズでそれぞれ1点。安打わずか3本で3得点を挙げ、松本昭彦(2年)も9奪三振の力投で応えた。
 3―2。そつのない攻撃とエースの踏ん張り。3人指導体制で取り組んできた練習の成果が、センバツ切符がかかる大一番で表れた。9月の県大会前、田代孝監督(36)の目標は地元開催の九州大会出場だった。「この戦力では…」。正直、4強進出までは頭になかったという。
  しかし、チームは県大会から一戦一戦、指揮官が思った以上に力をつけていた。何より大事な試合で気後れすることなく、ふだん通りの力を発揮する「佐商らしさ」が戻りつつあった。
  出場校決定発表が近づいた1月。雪の舞うグラウンドで基礎体力づくりに励む選手たちの姿があった。九州大会から3カ月。当然、センバツの文字が頭の中をよぎる。それでも「待つしかない」。気持ちの高ぶりを抑えながら日々の練習に集中した。
  「吉報」が届いた30日も、すぐふだんの練習に戻った。高校時代、3季連続で甲子園出場を果たした森田剛史コーチ(32)は「出場できたからといってそれで満足しては駄目。まだまだ立て直しの段階」。センバツ開幕までの約2カ月は、技術的な底上げはもちろんだが、謙虚に野球へ取り組む姿勢を再確認する時期であると考えている。
  「3本の矢=i指導者)が結束し、子どもたちの能力、やる気をうまく引き出している」。94年夏、全国制覇を成し遂げた田中公士元監督(62)=日本高野連評議員=は現在のチームをこうとらえている。結果が出なかった時期をきちんと振り返り、原因を探った。選手と指導者が向き合い、課題を克服しながら、前進してきたことが今後につながると確信している。
  田代監督は甲子園で「苦しい場面を我慢しながら、何とか食らいつきたい」と語る。「勝利」にこだわりがないわけではない。それよりも就任以来、選手に植え付けてきた一球、ワンプレーへの執着心をどこまで見せることができるか。名門の復活をかけた「原点」からの挑戦だ。


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